【童謡】野口雨情

子を亡くす悲しみ、子が育つ喜びと背後の悲しみを感じさせる童謡に心惹かれるなと思っていましたが、大体野口雨情作詞のものでした。

 

①赤い靴

以前書きました。北海道時代に知り合った夫人がキリスト教に置いてきたかよちゃんの話。

 

②シャボン玉

やねまでとんで こわれてきえた

うまれてすぐに こわれてきえた

かぜかぜふくな シャボン玉とばそ

野口雨情は生後7日で失った子がいたようです。

いわき湯本温泉のある湯本駅の発車メロディだそうです。

東京には赤い靴の銅像があるし、福島には発車メロディに残ってて、生まれの茨城に記念館がある。各地にゆかりのあるものがあるのはすごいなあ。

 

 

③七つの子

からす なぜなくの カラスの勝手でしょ

もはやafter志村けん世代にはこれが本当の歌詞だと思ってました。

からす なぜなくの からすはやまに

かわい七つの子があるからよ

七つの子は七羽でもなくからすが7歳でもなく。人間でいう七五三の7歳、やっと病気などで簡単に亡くならない安心できる年齢説、当時自分の子が7歳だった説、自分が7歳の時に母と別れた説があるようです。七つっていうのに思い入れがあるんだろうなあ。

(→追記

不二子さんによると、長男雅夫7歳の時の歌、いろいろあった。)

 

合田さんは童謡関係の仕事多い。

アカデミックじゃないけど現地に行ったりよく調べていらっしゃる。編集は黄金文庫っぽい読み物。

 

郷愁と童心の詩人 野口雨情伝

郷愁と童心の詩人 野口雨情伝

 

野口雨情記念館館長(雨情の長男の娘さん)著。CD付きらしい。届き待ち。

 

 

野口雨情

1882年生まれ、1945年没(62歳)。

赤い靴でのエピソードから北海道のイメージが強いですが、転々としていたのでしょうか。Wikipediaによると、茨城県生まれ、早稲田大学中退、故郷に帰り親の決めた結婚、子も生まれるが窮屈で樺太で事業、失敗し東京へ、北海道に渡り新聞記者に、首になったり転々とし、故郷へ、また東京へ、母の死を契機に故郷へ、痔の治療で福島へ、おかみとねんごろになり離婚し二児をひきとる、水戸へ、野口存彌が生まれる(東京生まれらしい、、)、疎開先の現宇都宮市で没。

子については

ーー高塩ヒロと結婚ーー

1906 長男 雅夫

1908 長女 ミドリ子8日後に死す@北海道

1913 次女 美晴子

ーー中里つると結婚(二男七女をもうける)ーー

1919 三女 香穂子

1922 恒子 2歳で死す?

1931 野口存彌

明治大正の文学者ってこんな感じなんでしょうか。おしんにも文学を目指すお屋敷の一人娘、好きな人自由を追って…って出てきましたが、よくできていたんだなあ。樺太、北海道と開拓の時代を感じます。昭和平成とはえらい違いだろうな。

福島のいわき湯本温泉、茨城の記念館に行きたいなあ。でも関東って遠いんです。車じゃなかなかいけない距離だし。

 

 

 

 

追記 2020.8.2

上記の野口不二子さんの本を読んだら、ネットに転がる情報とはまた違う世界が広がっていました。

 

①②③のほかには

④兎のダンス

證誠寺の狸囃子

も好きだなあ。

別に好きじゃないけど十五夜お月さん、黄金虫、もきっと歌うだろうな。

船頭小唄も有名らしいです。当時、関東大震災で不謹慎だから歌われなくなったとか。(枯れすすき、とか暗い歌詞のためという…。)

 

子については上記を修正しました。つると再婚後、子9人!?

 

ネットの細切れの情報からは、ヒロと結婚したのは親のすすめでイヤイヤという印象があったのですが、そんな単純なものではなく。ヒロも相当しっかりした女性で、しかも文学的素養があった。雨情はヒロがどうというより、一つの決まった土地で親のものを受け継いで守るという生き方が合わなかったのかなと思いました。

つるは、結婚当時16歳。雨情は36歳。つると東京に移ってから、ちょうど大正の児童文学が繁栄した時期でもあり、花開いたようです。

それ以外にも女性の話は出てきます。ヒロとの二児は親権は雨情とはいえ、お母さん恋しさから結局ヒロのもとに。その長男のお子さんが著者不二子さんです。不二子さんはとにかく守る女で、野口家の歴史から様々な資料を読み込んで、資料館館長をされ、こういう方のおかげで、この歌は何なんだろう、という当初の感動に応える情報に辿りつかせてもらえた気持ちです。

あとは月がキーワードのようですね。