オーストリアという国

ヴェルダン、メルセン条約で3つの国の原型ができたあと、スイスがハプスブルク家の支配をはねのけ自治していく過程で、スイスの右側にいつの間にかオーストリアという地域が出来上がっていた。ということでオーストリアという国について。

 

ハプスブルク家はスイスあたりの一領主でしかなかった。貧しい中世、子供が死んでいく中世において、安産型のハプスブルク家の女性が各王家に求められ、結婚していった結果、勢力が広がった。

基本的に朝廷、王族、世襲というシステムにおいては後継問題が必ず生まれるため側室が設けられる。イスラムしかり、日本しかり。ヨーロッパは例外であり、キリスト教的倫理観のもとでは、一夫一妻制が厳格に守られる。それはキリスト教が広まったローマの終わりにおいて、貧しい土地である中世ヨーロッパにおいて子供を沢山作ること、作ろうとする行為は制限をかけないと育てることができなかったからである。

ハプスブルク家は音楽を好んだ。絵画を好んだメディチ家によってイタリアでルネサンス絵画が華開いたように、オーストリアでは音楽が盛んになった。

ハプスブルク家は顎が長い。結婚前の詐称で少女時代のマリーアントワネットは可愛く描かれたが、結婚後の肖像画は顎が長い。

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処刑前のマリーアントワネット

 

歴史から見ていきたい。

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こう見るとオーストリアもスイス並みに山岳地帯である。

現在のオーストリアであるドナウ中流域には、さまざまな民族が到来した。ケルト人、ゲルマン人、そしてフン族スラヴ人アヴァール人、マジャール人

古くは、ローマ帝国の領土の際としてウィンドボナ(現ウィーン)を定めている。

①8世紀

アヴァール人を追い払ったカール大帝が、フランク王国辺境伯としてオストマルクを置いた。このオストマルクがオーストリアの語源である。

 

②9世紀

マジャール人を追い払ったゲルマン系ザクセンのオットー1世は神聖ローマ帝国を名乗り、オーストリアはその辺境として存在する。

辺境伯としてバーベンベルク家レオポルドが任ぜられる。

 

③1156年 オーストリア公国成立(神聖ローマ帝国の中の独立の公国)

バーベンベルク家の支配下、ドイツ人居住の東端として定着し、オーストリア公国として成立。

しかしやがてバーベンベルグ家の男系も断絶し、のみならず神聖ローマ帝国皇帝家も断絶。大空位時代となり、皇帝争いが起こる中、辺境のハプスブルク伯ルドルフに白羽の矢が立ったのだった。ルドルフは貧乏伯と言われたが、55歳で経験も豊富、能力もあり温厚だった。ここからハプスブルク家神聖ローマ帝国オーストリアとなっていく。

 

④1278年 ハプスブルク家の支配へ

神聖ローマ帝国の皇帝位争いであるマルヒフェルトの戦いでボヘミア王国と戦いハプスブルク家が勝利した。

1438年には神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家が独占し、ドイツ諸侯をも従えるようになる。また、安産型の婚姻政策により、ネーデルラント、スペインなど広大な領土を所有する。

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⑤1804 オーストリア帝国

1806年神聖ローマ帝国が消滅し、オーストリア帝国として存在する(1804〜67)

 

⑥1867 オーストリア=ハンガリー帝国

プロイセン=オーストリア戦争によって敗北し、ドイツ連邦は崩壊し、オーストリア=ハンガリー帝国が誕生。

第一次世界大戦(1914〜18)で敗北し、帝国崩壊。支配下ハンガリーチェコが独立したため、領土縮小してオーストリア共和国として誕生する。オーストリア君主としてのハプスブルク家は1918年まで続いた。

 

⑦1919年 オーストリア共和国

オーストリアは連合国と条約を結び、ドイツとの合併は禁止され、オーストリア共和国が誕生した。

同じドイツ語圏として狙われ、ナチス=ドイツに併合される。

 

⑧1955年 永世中立国

戦後、米英仏ソの管理下におかれ東西冷戦の最前線として永世中立国として歩み、1955年に主権を回復した。

 

 

 

そんなオーストリアを観光するなら。

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ウィーン

音楽

メディチ家は絵画・彫刻を好み、ハプスブルク家は音楽を好んだ。ウィーンが音楽の都と呼ばれるのは、巨大なハプスブルク家領土の首都であるウィーンにおいて、多くの民族をまとめる役割音楽が存在したとも考えられる。またハプスブルク領内の様々な国からいろいろな音楽が集まった。

モーツァルトベートーヴェンハイドンシューベルトマーラー、ヨハンシュトラウスなどが活躍した街で、オペラ座や楽友協会では毎夜ハイレベルの演奏が聴ける。

国立オペラ座 

楽友協会 ウィーン・フィルの本拠地

パスクァラティハウス ベートーヴェン記念館(住んだ)

モーツァルトハウス・ウィーン 4年間住んだ家。「フィガロの結婚」を作曲。

美術史博物館 16ユーロ ラファエロ、ベラスケス、フェルメールデューラーブリューゲルアルチンボルドなど

自然史博物館 ヴィレンドルフのヴィーナス、マリア・テレジアの宝石のブーケ等

ウィーン大学 1365年創立。ドイツ語圏ではプラハ大学に次ぐ2番目にできた大学。世界大学ランキング137位。人文科学に強い。

 

シュテファン大聖堂 ゴシック様式

王宮 ハプスブルク家の住居(13世紀〜1918年)

シェーンブルン宮殿 ハプスブルク家の夏の離宮 外観はバロック式(ヴェルサイユ宮殿に対抗) 内装はマリアテレジア好みのロココ(財政難にて金色をイエローにした。テレジア・イエロー) 鏡の間が有名 世界遺産

フンデルトヴァッサーハウス 代表作であるウィーン市の公共住宅。1986年完成。中は見れないが1階にショップあり。

クンストハウスウィーン 同じくフンデルトヴァッサー設計。1階カフェ、2・3階作品の常設展示、4階特別展スペース

フロイト博物館 ロンドンへ亡命するまで住んだ家

ウィーン包囲 オスマン帝国による

プラーター ドナウ川沿いのハプスブルク家の狩猟場(草地と森)。森の入り口にプラーター遊園地があり、観覧車もある。

ドナウ川遊覧船

ウィーンの森

エゴン・シーレ博物館

ゼーグロッテ地底湖 ヨーロッパ最大の地底湖

ヴァッハウ渓谷

ナイトクルーズで音楽とビュッフェ

ザルツブルク日帰り

ヴァッハウ渓谷日帰り

プラハ日帰り

ブダペスト日帰り