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浮世絵には、斃牛馬解体業者や、肉を食する者たちの光景が地獄でもあるかのように描かれた(例えば歌川豊国(一七六九-一八二五)の「観音の霊力」は穢多の身分に対する偏見が広まっていたことを明かしている)。
観音霊験記 西国巡礼 歌川豊国三代
の第五番のことだろうか。藤井安基が鹿の肉を刻んでいる。煮る鍋の煙は地獄の使者のようである。
将軍綱吉 生類憐れみの令
十九世紀初めに曲亭馬琴(一七六七-一八四八)は、穢多に対する蔑視をなぞっている。馬琴は実際、一八〇三年の旅行記の中に次のように記している。「大坂の市中犬すくなし。これは穢多主なき犬猫をつれゆき、皮を剝ゆゑなり」。
羇旅漫録(きりょまんろく)のことのようである。
馬琴の傑作とされる「南総里見八犬伝」では、
次のように書かれている。「人に貴賤の差別あり。婚家は其分に随ひ、みな類をもて友とせり。か、れば下ざまなる穢多、乞児といふといへども、畜生を良とし妻とせらる例を聞茺」。
穢多の金貸しを追いかけるのが金持ちになるための恥ずべき方法であること
『男色大鑑』火を囲んで河原に暮らす111人の非人
『好色一代女』京都の清水寺の坂道の一人の気を引く女性の物乞い」
『 罪人の敵討ち』1664年に上演され1736年に文楽として再演された、あまり知られていない歌舞伎の演目。主人公は、父親を殺した敵に報いるため非人になった二人の兄弟である。
同じ火は共有しない
共に酒は飲まない
■松尾芭蕉
「川上とこの川しもや月の友」
■歌川国芳
は餌取を描いた。当時の挿絵画家は、革の武具や馬具、筆(鹿の毛を使うことが多い)や茶道具の製造者、猿遣い、大道芸人、皮なめし職人、草履の修理人、獣医、川船の船頭、罷鉢の乞食」
「東海道中膝栗毛」には、十九世紀初めの宿場の「乞食,泥棒の巣」の滑稽な様子が描かれる
社会の流動性を高めたもうひとつの現象は、巡礼であった。貧者や病者、さらに様々な良民、あるいは物怖じしない人々が、地方の人々の信心深さをあてにし、巡礼者用の宿や食料を確保して、来る日も来る日も揃って巡礼の名所を目指した。
第5章
■かえる採り
■新網町
現在の浜松町二丁目付近。明治に生まれた東京三大スラム街の一つ。四谷の鮫河橋、上野の下谷万年町。増上寺近くに乞食僧、木賃宿。築地の海軍兵学校の残飯目当て。
■天龍寺