人名のノートです。主に保育の心理学、教育原理などで出題されます。
間違い箇所(理解不足)がありましたらご指摘をお願いします。誤字脱字はぼちぼち直します。すみません。
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ノートを途中で消してしまったのでボロボロです。
■人名 | ||||||||||
~〇〇といえば~ | ||||||||||
子供 アリエス ルソー | ||||||||||
近代教育 ペスタロッチ フレーベル | ||||||||||
感情 ルイス エックマン | ||||||||||
人名 | ポイント | 人名、生年、出生地 | 詳細 | |||||||
ソクラテス | 無知の知 | ソクラテス BC469 ギ | 無知の知 産婆術(対話で無知を自覚させる) | |||||||
プラトン | アテナイにアカデメイア | プラトン BC 427 ギ | アテナイにアカデメイア | |||||||
アリストテレス | アリストテレス | |||||||||
カント | カント | 『教育学講義』「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」「人間は教育によってのみ人間となる」 | ||||||||
ロック | 白紙説(タブラ・ラサ) | ロック 1632 | 白紙説(人は生まれた時には何も書いていない板のように何も知らず、後の経験によって知識を得ていく『教育に関する考察』環境や経験でどのようにも変化する) タブラ・ラサ(磨いた板) | |||||||
コメニウス | 最初の絵入り教科書 | コメニウス 1592 現チェコ | 『世界図絵』世界初絵入り教科書 言葉中心を批判 すべての人にすべてのことを教える 『大学教授』 ボヘミア同胞教団の牧師 直観教授(実際の物や事象または絵画・模型・写真などを観察させ、具体的、感覚的に理解させる教育方法。コメニウス、ルソーを先駆に、ペスタロッチによって展開・提唱されえた。実物教授。) | |||||||
ルソー | ルソー 1712 | 1712 積極的・消極的教育 子供の発見 『エミール』自然、事物、人間という3種類の先生のうち自然に合わせる 「美徳や真理を教えることではなく、心を不徳から、精神を誤謬からまもる」消極教育、内発的な力を重視 | ||||||||
ペスタロッチ | 生活が陶冶する 救貧学校 シュタンツに孤児院 直観教授法(メトーデ) | ペスタロッチ 1746-1827 スイス | 生活が陶冶する ルソーの思想を継承 ノイホーフに救貧学校→ シュタンツに孤児院(内戦で家を失った子どもの養育と教育) 生活が陶冶する(日々の営みである生活が人間、人格を育む)直観教授法(教え込むのではなく子どもの直観力をw大事にする。ルソーの影響) 『隠者の夕暮』『リーンハルトとゲルトルート』(貧困から抜け出す方法。物語形式)『シュタンツ便り』『ゲルトルート児童教育法』『幼児教育書簡』 | |||||||
『隠者の夕暮』玉座の上にあっても木の葉の屋根の蔭に住まっても同じ人間、その本質からみた人間、一体彼は何であるか。何故に賢者は人類の何ものであるかをわれらに語ってくれないのか。何故に気高い人たちは人類の何ものであるかを認めないのか。農夫でさえ彼の牝牛を使役するからにはそれを知っているではないか。牧者も彼の羊の性質を探究するではないか。 | ||||||||||
コンドルセ | 公教育設置法案 『公教育に関する五つの覚書』 | コンドルセ 1743-1794 仏 | 数学者、哲学者、政治家。コンドルセ候。社会学の創設者の一人、最後の啓蒙思想家ともいわれる。コンドルセのパラドクスなど近代民主主義の原理を数学を用いて考察した。啓蒙思想家たちと親交を深め、百科全書に独占的買占などの経済学の論考を掲載。1770年代に財務総監テュルゴーの片腕として政治改革に関わる。テュルゴーの改革は挫折に終わったが、政治と科学双方を射程に入れたコンドルセの思想は深化を遂げ、道徳政治科学(のちの経済学の源流)、社会数学という学問プロジェクトに着手。ルソーの直接民主制を否定し、唯一の社会的義務とは、一般の意志に従うことではなく一般の理性に従うことだと論じて間接選挙制を支持。のちのの社会学の創始者コントは、コンドルセを精神的父としているが、社会現象の記述に数学を適用することを全く認めなかった。今日定着しているコンドルセのイメージは社会的・政治活動に由来するものが多い。フランス革命時、公教育設置法案を提出した。同案は革命の動乱の中で成立することはなかったが、後世に大きな影響を与えた。それ以前に著した『公教育に関する五つの覚書』は、法案の基礎となっている。そこには、教育の事由が認められるべきであり、公共お育は国民に対する社会の義務であると述べられ、学校制度の在り方や教育内容にも言及されている。「黒人友の会」出稿、パリ・コミューン役員。1792年憲法委員会。恐怖政治に反対したため逮捕。隠遁生活の後逮捕され獄中で自殺、51歳。 | |||||||
オーベルラン(オーベルリーン、オベリン、オーバーリン) 1740-1826 ドイツ系フランス人 | 牧師 救貧 世界最古の保育施設 「幼児保護所」 | 牧師として赴任した村で、親の労働等で保育を必要とする子どものために世界最古の保育施設「幼児保護所」を開設し(1779)、歌、遊戯、編み物等を教えた。牧師、慈善家、社会活動家。牧師として赴任した地域は低開発の谷間の土地であったが、果樹栽培や農業生産を改善し、道路と橋を作り、友人の援助を受けて工場会社を多数設立した。彼の主導で児童学校が立てられ、彼の女中が指導にあたった。「子供に対しては厳しすぎず、常に優しい好意をもって、しかし侮ることなしに」という教育理念だった。女性の就業にもつながった。 | ||||||||
オーエン | 性格形成学院 | オーエン 英 1771 Robert Owen | 性格形成学院(子どもの年齢に合わせた教育を行う) 叩かない罵倒しない | |||||||
フレーベル | 恩物 幼稚園(キンダーガルテン) 児童指導者養成施設 | フレーベル 1782-1852 独 | 『人間の教育』児童指導者養成施設 世界で最初の幼稚園 遊戯と作業の施設「キンダーガルテン」 幼児の庭 遊び(x作業) 遊具(恩物)で子どもの活動を引き出す 関信三(x近藤真琴)編集『幼稚園法二十遊嬉』で紹介 家庭教育のための『母の歌と愛撫の歌』 | |||||||
ヘルバルト | 四段階教授法(↔直感教授法) 『一般教育学』 | ヘルバルト 1776-1841 独 | 四段階教授法(ツィラーが5段階教授法へ発展、ラインがそれを整理)明瞭→連合→系統→方法 科学としての教育学(初) 『一般教育学』「私は、教授のない教育などというものの存在を認めないし、また、逆に、教育しない教授も認めない」 (ペスタロッチとは異なり教える側が主。19世紀前半、学校教育が普及していくにあたり教師の技術の習得を科学しようと試みた。後の時代には、子ども主体でないと批判される) | |||||||
cf.モリソン・プラン ヘルバルト派の流れを汲んだ最近の理論。教科の特性によって授業の型を分類する。日本の導入-展開-まとめの型も。 | ||||||||||
ツィラー | 五段階教授法 | ツィラー 1817-1882 | 五段階教授法 分析→総合→連合→系統→方法 | |||||||
ライン | 五段階教授法 | ライン 1847-1929 | 五段階教授法 予備→定期→比較→概括→応用 明治20-30年代にハウスクネヒトにより日本に紹介 | |||||||
★エレン・ケイ | 児童中心主義 『児童の世紀』 | エレン・ケイ 1849-1926 スウェーデン | フェミニスト 『児童の世紀』「教育の最大の秘訣は教育しないことにある」20世紀は児童の世紀 大正時代影響 労働婦人の休息所 婦人解放運動 (ヘルバルトの四段階教授法(教師主導)→批判→子供が中心であるという時代に) | |||||||
デューイ | 『学校と社会』 コペルニクスに例え 問題解決学習 | デューイ 1859-1952 米 | 問題解決学習(暗示→理性化→仮説設定→推理→検証) 為すことによって学ぶ(Learning by Doing) 経験主義 プロジェクトメソッドは、デューイの後継者の一人であった切るパトリックによって提唱されたもので、問題解決学習の一種と考えられる。 シカゴ大学に実験学校をつくる プラグマティズム 今日の生活や総合の授業への影響 『学校と社会』『民主主義と教育』 児童中心主義…旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子供たち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師m教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子供自身の直接の本能と活動以外のところにある。いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。これはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子供が太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが組織される。 シカゴ大学付属小学校をつくる 『学校と社会』 子どもを中心とする教育への変革をコペルニクスに例えて主張 プラグマティズム(pragmaギ行動)を背景に経験主義 実験主義の教育 為すことによって学ぶ(カリキュラムは教師が一方的に教えればいいのではなく、経験を通して子どもと有機的に結びつくことができる) 教育はたえざる経験の再構成である | |||||||
『学校と社会』旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子供たち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであるとよいが、とにかく子供自身の直接の本能と活動以外のところにある。(中略)いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたあびは子供が太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子供が中心であり、こおn中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。 そこで、活動的な仕事のさまざまな形態を学校に導入することに関して、留意すべき重大な事柄は、これらの携帯を通して、学校の前政審が一新されるということである。学校は、将来営まれるべき、ある可能な生活と抽象的で、迂遠な関わりしかもたない学課を学ぶ場所ではなく、自らを生活と関連させ、子どもが指導された生活を通じて学ぶ、子どもの住処になる機会をもつものとなる。学校は小型のコミュニティ、胚芽的社会になる機会をもつ。これが基本的事実であり、ここから継続的で、秩序ある教育の流れが生ずる。 | ||||||||||
デュルケム | デュルケム 1858-1917 仏 | 『教育と社会学』「教育とは、子どもの体系的な社会化である」 乱れた社会秩序を立て直す | ||||||||
ルーズベルト | 第1回白亜館会議(ホワイトハウス会議) | ルーズベルト 1882 | 第1回白亜館会議(ホワイトハウス会議)で児童福祉の基本原理「児童は緊急なやむをえない理由がない限り、家庭生活から引き離されてはならない」 | |||||||
ハウ | ハウ Howe, A.L. 1889 米 | 頌栄幼稚園(神戸、灘)設立 頌栄保姆伝習所創立者 米 婦人宣教師 フレーベル保育理論の普及 | ||||||||
ヒル | ヒル大型積木 | ヒル Hill, P.S. 米 | ブローを中心としたフレーベル主義を形式化していると批判 ヒルの進歩派と論争 幼稚園改革 大型積木 | |||||||
シュタイナー | オイリュトミー フォルメン エポック授業 | シュタイナー | 自由ヴァルドルフ学校 オイリュトミー(音楽と) フォルメン(形状描写と) エポック授業(一定期間同じ授業をする)『神智学』 | |||||||
モンテッソーリ | 障害児教育 教具 「子どもの家」 セガン | モンテッソーリ イタリア | 障害児教育 1907子どもの家 教具(x恩物)を含んだ環境を整えることが保育者の重要な役割 ローマのスラム化した地区において、アパートの一等に昼間仕事をしているははぴゃの児童を預かるための施設として「子どもの家」が設立され、そこでの実践を通して自らの理論を構築した。 | |||||||
セガン 1812-1880 仏 医者、教育者 | ||||||||||
モンテッソーリ教具 『障害児の治療と教育』 | ||||||||||
セガンが知的障害の子どもの教育のために開発した教具に修正を加え、独自の教具を作り、それが後のモンテッソーリ教具と呼ばれるものとなった。知的障害における彼の仕事はモンテッソーリをインスパイアした。 | ||||||||||
コダーイ | 民族音楽 コダーイシステム | コダーイ | 民族音楽コダーイシステム | |||||||
ピアジェ | ピアジェ スイス 前操作的段階の特徴は自己中心性(見かけに左右されやすい) | |||||||||
構成主義(↔実証主義) 人と現実は同じ世界に存在していて受け身ではない | ||||||||||
物の永続性 0-2、2-4/4-7、7-11、12- | ||||||||||
反射 | ||||||||||
感覚運動期の認知発達 予測と確認 | ||||||||||
第1次循環反応 1-4か月 なめなめ 足をこすり合わせる おしゃぶり | ||||||||||
第2次循環反応 4-8か月 対象を操作して遊ぶ シャカシャカ 感覚と運動を組み合わせた行動 物を介して同じ行動を繰り返す 起き上がりこぼしを足でけって音を出す | ||||||||||
第2次循環反応同士の共応 8-12か月 おもちゃでおもちゃを叩いて音が出る | ||||||||||
第3次循環反応 12-18か月 実験や試行錯誤による新しい手段の発見 組み合わせの多様化、儀式化 たたくとこするで音が違う 自分の行動とそれが周囲に与える影響に関心 積み木を床に落とした後、違うやり方で投げてみるなどいろいろ試してみる | ||||||||||
心的表象 18ー24か月 いまここにないものを 前の日に見たものを真似る | ||||||||||
・3歳頃までの子は感覚運動を通して世界を理解している(x)3歳→2歳 | ||||||||||
数唱 1、2、3…と数を一つずつ数えること。数の保存概念を獲得するまでの過程として必要な能力 | ||||||||||
数の保存概念の3段階 見本のおはじきと同じように並べられないー並べられるが、密度を変えると数も変わったと思う(4、5歳)ーおはじきの列に変化が起きても同じだとわかり保存概念が成立する | ||||||||||
シェマ(認知構造) 数の概念の発達に大きく関与 「外界の対象に働きかける際にその対象を自分に合うように変化させて自分の内部に取り入れることを調節という(x)」(それまでに獲得した枠組み(シェマ)に情報を加えて修正し新しい枠組みとすることを調節という) 「ホームセンターには花の種が売っている、ということを知っている(シェマ)。それを植えた(シェマと同化させることができた)。花を植えたつもりだったのに野菜ができた…!?(シェマ調節)」「赤ちゃんは本能的に吸啜できる。乳首を吸ったらミルクが出てきた(シェマを獲得)。哺乳瓶でも飲めた(シェマと同化)。哺乳瓶に麦茶を入れて飲ませてみた。赤ちゃんはいつもと違ってびっくり、シェマを変化させる(シェマの調節) | ||||||||||
計数に必要な5つの原理 | ||||||||||
1対1対応 | ||||||||||
安定した順序 | ||||||||||
基数性 物の数を数えた時に最後の数がその集合の数を | ||||||||||
同化 アシミレーション 既に持っている認知構造(シェマ)にあてはめて処理すること。いつも丸い飴を舐めていたが、初めて見る梅干しも丸っこいので甘い飴玉のように思っている。 | ||||||||||
調整 アコモデーション | ||||||||||
・感覚運動期 0〜1歳半ないし2歳(x3歳) | ||||||||||
対象の永続性(物の永続性)の理解は8ヶ月(その後の研究では5ヶ月半以降とされる) | ||||||||||
・前操作期(2〜7歳) 前概念的2-4、直観的4-7 | ||||||||||
言葉を用いて世界を捉える | ||||||||||
自己中心性(中心化) | ||||||||||
他者の視点に自分が立ったり、自分と他者の相互関係をとらえたりすることが難しいこと | ||||||||||
3つの山課題 | ||||||||||
アニミズム | ||||||||||
自己中心語(遊びの活動に伴ってリズミカルに繰り返される独語・ひとり言) 自己中心性のあらわれで未熟性によるもの 思考機能とは関連させていない | ||||||||||
脱中心化 自己中心的思考の傾向を離脱すること | ||||||||||
象徴的思考期(前概念的思考期) 2〜4歳 イメージが生じる 言語によって象徴できる 抽象化や一般化は困難 | ||||||||||
直感的思考期 4〜7歳 推理や判断は知覚的直感に依存している。量や重さは見かけの大きさに左右される→数の保存概念はまだ成立していない(視覚的優位とはピアジェは言っていない) | ||||||||||
・具体的操作期(7〜12歳) | ||||||||||
重さの保存(x密度の保存) 数、重さ、体積などの保存が獲得される時期 粘土をソーセージ | ||||||||||
群性体group 論理的操作の体系 物の分類、順序づけに必要な操作 | ||||||||||
論理的思考 | ||||||||||
・形式的操作期(12歳〜) | ||||||||||
抽象的な問題解決 | ||||||||||
形式論理的な思考が可能となり知能発達は完成の段階 | ||||||||||
ゲゼル | 成熟優位説 レディネス(成熟) 階段実験 | ゲゼル | 一卵性双生児の階段上りの実験からレディネスを提唱した。成熟がレディネスの形成要因であり、自然発生的である。 | |||||||
ブルーナー | 発見学習 レディネス(教育) ブルーナ早期英才教育 | ブルーナー 1915- | レディネスは教育によって促進できると示した。→現在は発達要因と学習要因の両者がともに関連すると考えられている。また、ブルーナーの発達観は早期の英才教育を推奨するものとしてブルーナーの意図とは別に理解されてしまった。 『教育の過程』 | |||||||
ワトソン | ||||||||||
ブロンフェンブレンナー 生態学的システム論 | ブロンフェンブレンナー | 人が関わりをもつ社会的文脈を | ||||||||
マイクロシステム 親 兄弟 保育士(直接かかわる) | ||||||||||
メゾシステム 家庭と保育所 家庭と小学校 | ||||||||||
エクソシステム 親の職場 兄弟の学校(間接的に関わる) | ||||||||||
マクロシステム信念体型、価値観 法律 文化(社会的文脈が第1層から3層を取り囲んでいる) | ||||||||||
シュテルン 輻輳説 | シュテルン 輻輳説 | |||||||||
ジェンセン 環境閾値説 | ジェンセン | 環境閾値説(遺伝は最低限の環境が整わなければ発達に影響できないし、逆にどんなに環境がよくても、発達には遺伝的素質に基づく限界がある) | ||||||||
身長>知能検査結果>学業成績>音感 | ||||||||||
ギブソン | アフォーダンス | ギブソン | ||||||||
フロイト | フロイト | ・誕生~青年期を口唇期・肛門愛期・エディプス期・潜伏期・思春期の5つに | ||||||||
・学童期を心理・性的発達段階の第4段階である潜伏期とし、この時期は心理的問題gみられにくいと述べたのはフロイト(xマーシア) | ||||||||||
ヴィゴツキー | 社会 発達の最近接領域 外言→内言 | ヴィゴツキー | ピアジェの考えに反対(子どもの心身や言語の発達は自然的かつ自制的に発達しない。社会的環境と双方向のコミュニケーションを重視。) | |||||||
発達の最近接領域 2つの発達水準(完成した水準、成熟しつつある水準)の差の範囲のこと 大人の教育的働きかけによって拡大したり縮小してしまったりする | ||||||||||
生活的概念(日常生活や遊びなどの体験を通して自然に習得する概念)と科学的概念(学校に入学後、抽象化され系統だった知識体系)は相互に関連しながら発達する | ||||||||||
ワロン | アンリ・ワロン 1879-1962 仏 児童精神医学者(ピアジェが児童心理学者だとしたら) | 情動機能に着目して発達理論を唱えた。障害児の治療と教育 精神障害は環境も関与。戦時中は軍医、レジスタンス、戦後に国会議員。 | ||||||||
バロン | バロン | バロン 心の理論 自閉症 | ||||||||
プレマックとウッドラフ | 心の理論 | プレマックとウッドラフ | 1978の共同研究で心の理論という用語が初めて用いられた。 | |||||||
ビマーとパーナー | ビマーとパーナー | 1983サリーとアン課題 4歳~7歳にかけて正答率上昇。自閉症研究に大きな影響を与えた。 | ||||||||
大西クリスティンとベイラージャン | 大西クリスティンとベイラージャン | 2005非言語的誤信念課題により15か月児でも理解している可能性を示した。 | ||||||||
ハヴィガースト | ハヴィガースト | ハヴィガースト 乳幼児期~老年期に6つ 課題 | ||||||||
ロゴフ | ロゴフ | ロゴフ | ||||||||
レヴィン | レヴィン | レヴィン グループダイナミクス | ||||||||
バルテス | 生涯発達心理学 | バルテス 1939-2006 独 | 生涯発達心理学を切り開いた。バルテス以前の発達心理学は、青年期までの若い世代を対象としていた。介護の世界へ高い影響を与えている。獲得と喪失とが相互に関連しあって、老年期まで共存する(獲得・喪失モデル=環境への適応能力の獲得と喪失に関する理論)。 | |||||||
トマセロ | トマセロ | トマセロ 共同注意が可能になる認識の変化を9か月革命と呼んだ1999 | ||||||||
ボウルビィ | 愛着理論 | ボウルビィ 愛着理論 『乳幼児の精神衛生』 | ||||||||
アリエス | 『<子供>の誕生』 | アリエス | 『<子供>の誕生 -アンシァン・レジーム期の子どもと家族生活-』子供を題材にした芸術と図像記述の歴史に着目して子供期が発見されたものだと主張 小さな大人が子供として扱われるようになる様子 | |||||||
イリイチ | 『脱学校の社会』 | イリイチ 1926-2002 オーストリア 哲学者、社会評論家、文明批評家 イリイチキチガイ | 『脱学校の社会』学習や健康といった価値の制度かを特徴とする学校かされた社会批判 教えられ学ばされることにより自ら学ぶ学習の動機をもてなくすると批判 父はクロアチア貴族の末裔、母はユダヤ人。父は外交官でマルチリンガルな環境で育つ。ユダヤ系であることを隠すために身分証を偽造し、化学、哲学、進学、歴史を学びカトリックの神父になる。研究のために立ち寄ったニューヨークでスラムに遭遇し願い出てプエルトリコ人街の教会の神父として赴任し、マイノリティの人々のために奔走する(25歳)。30歳、南米での解放の進学などの運動に共感し、リベラル・カトリックとして活動を始める。メキシコで教会活動し、ローマ・カトリックに対して文化帝国主義と批判していたためメキシコ司教会議はイリイチの追放活動を展開。1969年司祭の資格を放棄し教会活動を去る。この頃から脱学校論を提唱。先進国の開発援助などを批判する思想家として広く知られ、ペンシルベニア州立大学などで教鞭をとる。 | |||||||
フレイレ | 銀行型教育 『被抑圧者の教育学』 | フレイレ 1921-1997 ブラジル 教育者、哲学者 | ブラジル生まれ。弁護士になるが最初の1件で引退。貧しい農村の非識字の農夫たちに自分たちの境遇を考え、自分の暮らし、生活を変えていく(意識化)力としての読み書きを教えて大成功を収める。これが大資本家たちの機嫌を損ね国外追放になる。アメリカ、ヨーロッパを経て各地の大学で講義。ブラジルに民主政府の成立後帰国しサンパウロ市教育長などを務めスラムの識字教育を推進。彼の教育実践からエンパワメントという言葉が生まれた。20世紀を代表する教育思想家としてイリイチと双璧をなすと言われることもある。『被抑圧者の教育学』「銀行型教育」とは、教師によって知識の蓄積をされていく空の口座の生徒像であり、この教育形態に否定的であった。この教育を通じて教師も生徒も非人間化されてしまう上に社会における抑圧的な態度や行動が助長されてしまうから。相互発信的な対話が重要である。銀行型教育概念にあっては、知識は自分を物知りと考える人々が何も知らないと彼らが考える人々に授ける贈物であって、他者を絶対的無知としてみなすのは抑圧イデオロギーの特徴である。ここで、探究であったはずの教育と知識は否定される。 | |||||||
フロイト | フロイト | ・誕生~青年期を口唇期・肛門愛期・エディプス期・潜伏期・思春期の5つに | ||||||||
・学童期を心理・性的発達段階の第4段階である潜伏期とし、この時期は心理的問題gみられにくいと述べたのはフロイト(xマーシア) | ||||||||||
ヴィゴツキー | 発達の最近接領域 社会 | ヴィゴツキー | 発達の最近接領域 2つの発達水準(完成した水準、成熟しつつある水準)の差の範囲のこと 大人の教育的働きかけによって拡大したり縮小してしまったりする | |||||||
キャンポス | 視覚的断崖 | キャンポス Campos, J.J. コーネル大学 生存? | ||||||||
視覚的断崖(社会的参照) 母が不安な顔をしたらはいはいを止め、笑顔だと寄ってくる | ||||||||||
cf.視覚的断崖実験(奥行知覚)を先に行ったのはギブソンのグループ | ||||||||||
ハヴィガースト | 乳幼児期~老年期に6つ 課題 | ハヴィガースト 乳幼児期~老年期に6つ 課題 | ||||||||
ロゴフ | ロゴフ | |||||||||
エリクソン | エリクソン | ・心理社会的課題(x心理生理的) 成人期後期は生殖性対停滞 統合 | ||||||||
マーシア | モラトリアム アイデンティティ・ステイタス 青年期の発達心理学 | マーシア | エリクソンの言う危機と積極的関与を2軸にし、アイデンティティを4つの状態(アイデンティティ・ステイタス。達成/早期完了/拡散/モラトリアム)に定義した。 | |||||||
ホリングワース | 心理的離乳 | |||||||||
レヴィン | グループダイナミクス 場の理論 社会心理学の父 | クルト・レヴィン 1890-1947 独 | ユダヤ人→亡命→MITにグループダイナミクス研究所創設。 | |||||||
バルテス | 生涯発達論 老年期の知恵 | バルテス 1939-2006 | 選択的最適化 知恵を実践的知能の一つとする。 | |||||||
ガードナー 1943- 米 | ||||||||||
8つの知能 多重知能理論(MI) IQ→EQ→MI | ||||||||||
ドイツから移住したユダヤ系家族の息子。よく勉強し、ピアノが良くできた。妻はボストン大学(もと小学校教師)、4人の子ども、1人の孫がいる。IQは画一主義で、言語的スキルやすうがく | ||||||||||
IQはマジョリティの分化によって企画課されたものである。想像力や発想力、リーダーシップなど多くの特性を図ることができない。I!テストは、学校での成功をかなり正確に予想することができるが、職業における成否はほとんど無関係なものにすぎない。「人の知能として、すべての | ||||||||||
ロスバード | 滑動に共通する知能というものは想定せず少なくとも8つの異なる知能が存在すると考えている。これらの8つの知能は独立してはいるものの、っとエバsカウ分を書くことは言語的知能が関わる活動であると同時に、読み手や書き手により書き方を調整するといた個人間知能や、何を伝えたいかを明確にする個人内知能とも関係する。」 | ロスバード | 気質を反応と自己制御における個人差で捉えた | |||||||
トマスとチェス | 気質3タイプ(9つの特性の組み合わせから) 育てやすい子 | トマスとチェス夫妻 米 精神科医 | 気質3タイプ=育てやすい子40%(生活リズムが規則的で新しいことにも積極的で速くなれる。順応が早く機嫌が良いことが多い)/育てにくい子10%(生活リズムが不規則で新しいことや慣れないことに対し回避的。順応が遅く不機嫌なことが多い)/時間がかかる子15%(生活リズムは規則的であるが、新しい環境に適応するのに時間がかるが起源は良いことが多い)/平均的な子。特性9つ=①活発さ②接近-回避③規則正しさ④順応性⑤反応の強さ⑥反応の閾値⑦気分(機嫌)⑧気の散りやすさ⑨注意の幅と持続性。生まれ持った個性としての気質があり、それに基づいて子どもは生活環境を形成する。「ニューヨーク縦断研究」質と環境の適合を。 | |||||||
サメロフ | ||||||||||
モレノ | ||||||||||
パブロフ | 古典的条件付 | |||||||||
スキナー | オペラント条件付け スモールステップ | |||||||||
マズロー | 欲求段階説 | |||||||||
レイチェル・カーソン | 五感 センスオブワンダー | |||||||||
ソーンダイク | 試行錯誤学習 | |||||||||
バンデューラ | 観察実験 | |||||||||
★社会的比較 上方 下方比較 自己概念 | ||||||||||
ケーラー | 洞察学習 | |||||||||
バーテン | 遊びの発達 | |||||||||
マッコール | ||||||||||
ポルトマン | 生理的早産 離巣性 就巣性 二次的就巣性 | |||||||||
ベル | ||||||||||
ハウスクネヒト | ||||||||||
ランカスター | ||||||||||
コルチャック | 児童の権利条約の精神的な父 | |||||||||
キルパトリック | ||||||||||
モリソン | ||||||||||
パーカースト | ||||||||||
ペーターゼン | ||||||||||
ポルトマン | ||||||||||
カイヨワ | ||||||||||
ブルーム | マスタリーラーニング 形成的評価 | ブルーム 1913- 米 | 教育心理学者。評価を診断的評価・形成的評価・総括的評価に分けて考察した。形成的評価を重視し、その評価をフィードバックしてマスタリーラーニングを目指すべきとした。 | |||||||
オーズベル | 有意味受容学習 | オーズベル 1918-2008 米 心理学者 ピアジェの弟子 | ニューヨーク生まれ、コロンビア大学。ピアジェの弟子。ブルーナーの発見学習に批判的だった。生徒の学習の下地の少ない状態で応用的な学習を扱うことが多いため。生徒が持っているつぃきに結び付けることが大事と考え有意味受容学習を提唱した。2段階あり、受容学習ではまず教師が生徒へ教える内容を提示する普通の一斉授業のイメージ。次に有意味学習では、教わったことを既に持ってる既知のことに結び付けて意味付けをする。文化の継承として知識をそのまま受け入れて身に着けることが大切であるが、機械的に知識を覚えさせrのではなく、学習者の認知構造に意味のある変化をもたらすように教えなくてはならない。 | |||||||
レイヴ | ||||||||||
ウェンガー | ||||||||||
キャッテル | 結晶性知能 流動性知能 | キャッテル 1905-1998 英 | 因子分析法により知能を結晶性知能と流動性知能を発見した。結晶性知能…過去の経験や獲得した知識に基づく知識。学校で受けた教育や仕事・社会生活で得た経験に基づいた知能。言葉の分析、単語力、語学能力。高齢者でも低下しにくい。流動性知能…新しいことを学習する知能、新しい環境に適応するための問題解決能力。流動性知能の高い個人が、結晶性知能をより発達させることができる。 | |||||||
ラングラン | 生涯教育 ユネスコ | |||||||||
~愛着~ | ||||||||||
ボウルビィ | 愛着理論 | |||||||||
ローレンツ | ||||||||||
ハーロウ | アカゲザル | |||||||||
エインズワース | ストレンジシチュエーション法 愛着の型(3つ→4つへ) | |||||||||
ホフマン、クーパー、パウエル | サークル・オブ・セキュリティ | |||||||||
ファンツ | 選好注視法 | |||||||||
ルイス | 一次的感情、二次的感情(自己意識的感情) | ルイス 1877-1956 | 出生時 満足/興味/苦痛 3か月 喜び/悲しみ/嫌悪 6か月(基本的感情)満足-喜び/興味-驚き/苦痛-悲しみ・嫌悪・怒り・怖れ→人見知りへ 1歳半(自己意識の芽生え=二次的感情)照れ/羨望/共感 2~3歳(他者からの認識の発達)誇り/恥/罪悪感 4歳(心の理論) ↑気持ちを代弁してあげると発達を助けられる | |||||||
エックマン | 基本的感情 | エックマン 1934- | Lie to meのモデル | |||||||
cf.感情研究 ルイス ←発達心理学で有名 Wundt 内観法 感情の三次元説 Schorsberg 感情の三次元モデル →感情は多次元空間のいずれかに位置付けられる説(動的、機能的側面の説明不足) Plutchik 立体モデル Frijida 行為傾向 エックマン 基本的感情 Johnson-Laird and Oatley | ||||||||||
~はせがわわか本~ | ||||||||||
デシ | やる気研究 | エドワード・デシ | 友達に教えてあげたいと思ってやる気満々で勉強した子の方が記憶している→やる気が出るまで待つ、楽しかったねだけ言っとく | |||||||
バウマイスター | 自我消耗 | ロイ・バウマイスター | クッキーを我慢するストレスで消耗してしまうのでクッキーを食べた方が成績が良い→我慢できない子には我慢させない。ポジティブな気分にさせる。笑う。 | |||||||
我慢する力は鍛えられる→食事前のおやつを我慢してもらう代わりに、食後のフルーツを奮発する。我慢によって得られるものが大きい、いつまで我慢すればよいかが分かると良い。遊んでほしい子供にxあっち行ってて〇10分待てば手が空くからそうしたら公園に行こう | ||||||||||
子供の自己肯定感を高めたからといってうぬぼれにはならない | ||||||||||
ミシェル | マシュマロテスト 遅延の価値割引 | ウォルター・ミシェル | 4歳の時に目の前のマシュマロ1個を食べずに20分待てば2個あげるで待てたら将来のやり抜く力と関係→3~7歳で前頭前野発達。欲求のコントロール。他人を理解。それまでは無理。 | |||||||
アンドリュー・シンプソン | 3歳半~7歳で白カードを「くろ」黒カードを「しろ」と言うゲームの正答率が上がる。いつもの習慣に縛られる→挨拶する子、片づける子にしたかったら指示するのではなく親がそうする | |||||||||
エリオット・チュリエル 米 心理学者 | 守るべきことは「道徳」「きまり」「個人的決め事」の3つに分類され別つに発達する→しつけは「きまり」(状況に応じて怒られない) | |||||||||
シャーロット・ビューラー 独 発達心理学 | おもちゃに触っちゃいけない研究で、1歳半を境にきまりを理解することが分かった(みんな触っちゃうんだけど、1歳半までは何がいけないのか分からない顔をする。1歳半の子はビックリしてやっちゃった顔をする)→1歳半からしつけ。1歳0か月の子に座って食べるよう言ってもできないので、1歳半までは過ちをしないような環境を作り出す(波多野完治) | |||||||||
ピアジェ | きまりを守るには三段階ある。7歳~はきまりの理由を考えられる。お店のおもちゃを触っちゃだめなのは、だめだと言われるからじゃなくて、壊したりすると困るから→子供の過ちを結果だけで怒ったり褒めたりしない。どうして〇〇しちゃったの?と理由を聞くこと。Aお菓子を勝手にとらないようにいつも言われてたけど、今日もついかばんの中を探してたら、指輪が出てきた。ママが探していた指輪だった→褒めたら、悪いことをしても結果オーライ、見つかんなきゃ大丈夫、と教えてしまう。/お絵描きが好きで、ママの絵を描いたからママのお気に入りの口紅で塗ろうと思ったら折れちゃった→怒ったら、自分で考えて勝手なことしちゃダメ、言われたことだけやろうと考えてしまう。理由を聞くこと。 | |||||||||
ロバート・L・セルマン 米 教育心理学者 | 幼児期の子どもは他人の立場になって考えることは難しい | |||||||||
荒木紀幸 道徳性発達心理学者 | 6歳の子どもの99%が他人の立場で考えることはできない→レストランで騒いでいても、他の人に迷惑といっても何が悪いのかはちゃんと理解できない。自分が迷惑している時がチャンスで、〇〇ちゃんが楽しく食べたい時に騒いでいる子がいると嫌でしょ(ああやって騒いでる子がいると、落ち着かなくっていやだね、と耳打ちする)と自分視点で伝える。転院さんに静かにしてもらうようにお願いして、帰り際にその子に静かにしてくれてありがとうと伝えればお互いハッピー。 | |||||||||
レフ・ヴィゴツキー ロシア 心理学者 | ごっこ遊びが幼児期の発達を最もうながす遊び。→「きまり」能力を全力で遊ぶ。ごっこ遊びでできるようになったことが生活でもできるようになる。ルール、他人の視点、他人の気持ちを理解する力。1歳空っぽのコップを飲むふり2歳段ボールで電車ごっこ、折り紙をお料理(まだ自分)3,4歳ものを別のものに見立てる、自分を別の人に見立てる、レストラン、道路、順番待ちのルールの予習。 | |||||||||
メラニー・フェネル『自信をもてないあなたへ』 | 子どもは親を常に完璧で正しいと思っている。その親が「オッケー、オッケー」とニコニコしていってくれるだけで自分の行動は正しいんだ、ありのままでいいんだというポジティブな自己イメージを持つ。逆に「違うってば」「何回言ったら分かるの」と否定して苛々しているほど、自分は間違っているというネガティブな自己イメージを持つ。そして自分が悪いと感じる。正しい行動が分からないと自己否定間がどんどん強くなる。子供は親から言われた通りのイメージを自分に投影させる。「大丈夫だよ。きっとできるよ」と言っていればそのうち本当にできるようになる。 | |||||||||
自己肯定感 | ビョークランド・デイヴィット 米 | 低いメタ認知能力で幼児は自分の力を高く見積もるからからこそいろんなことに挑戦し結果を失敗ととらえないで済む。 | ||||||||
自己肯定感 | アリス・ミラー スイス 精神分析家 | ナルシシズム傾向の高い人はありのままの自分自身を愛せないがゆえに、無意識に自分を誇大化することで他社からの愛情を得ようとしているのであって、幼児期にありのままをうけいれてもらえなかったことが原因 | ||||||||
エリザベス.W.ダン | お金を渡して、5時までに自分のために使って、5時までに他人のために使って研究で、他人のための方が幸せ度が高かった。→幼児期のお手伝いは役割をやり遂げることではなくオア帯になっても人を助ける喜びを感じる心を育てること。 | |||||||||
マイケル・トマセロ | 1歳8か月の子にAおもちゃをご褒美にBありがとうC無言研究で、Aおもちゃをあげた子は人助けをしなくなった。→お手伝い、人助け自体がご褒美(人を助けたい)。ご褒美をあげると喜びを感じられなくなる現象はアンダーマイニング効果。 | |||||||||
マーチン・ホフマン 米 心理学者 | プレゼントをもらって悲しい顔をしている状況を見て、プレゼントがほしかったものと違うんだなと理解して共感できる子どもほどやさしい行動をする→指さしにとことん付き合うことで共感する楽しさをたあくさん経験すると共感する脳のニューロンがどんどnかっぱつになる。差肢位子供に育つ。 | |||||||||
はせがわ | ルージュテスト1歳半26%2歳68%。他人と区別がつく頃から、他人のために何かしてあげたいと思う。人助けするにはさらに自分の他人の気持ちが違うことに気が付くうことが必要。お風呂上りに逃げ回ってはしゃいでいる子は、ママも楽しいと思い込んでいる。うまく助かられてなくても誰かのために何かしたいという気持ちをほめる「優しいね。ありがとう」風邪でつらい時に絵本を読まされた時は「ありがとうね。もう十分だよ」「xかえってつらいよ」 | |||||||||
カール・ロジャーズ 米 臨床心理学者 | 相手の感情が正しいかどうかを判断せずにまずは自分もまるであたかも相手になったkのように共感すること。→まずはおもちゃで遊びたい子どもの気持ちに共感する。優しい心を育てるにはまず共感。「そうだよね、遊びたいよね」お友達の気持ちを説明してあげる。もし譲れたら「本当に優しいね。うれしいな」 | |||||||||
ジャン・エンゲルマン 米 | シールが1枚足りない5歳時実験で、誰にも見られていないときはこっそり次の子のシールを抜き取ったが、仲の良い友達が見ている時は寛大な行動が増えた→2,3歳から自分に優しくしてくれた人にやさしくするよというように人を選ぶようになる。→友達を差別化するのは自然なこと。でもx「あの子、嫌な子だもんね」〇「いじわるだかあらって冷たくしたらかわいそうじゃない?」。友達から冷たくさえrたら優しく慰めてあげるにとどめておく。子供は勝手に成長する。優しい人がみんなから優しくされる。親雄が優しく接していれば子どもは優しく育つ。 | |||||||||
? | 叱るのではなく困った相手の様子を伝える。△「噛みついちゃだめ!」〇「あなたが泣かせちゃったんだよ。噛みついちゃだめだよ。」相手の状態を悲しく表現して共感を促す方が、反省して自分からごめんなさいと言える | |||||||||
ウィリアム・ハーバウ | 15ドル募金実験、強制的と自分え選べる時とのご褒美感覚。→△分けてあげなさい〇分けてあげたらどうかな?(自分で選ばせる)〇「あら、お友達悲しいお顔になったね」共感を促す。粘土も分けてあげる量を選ばせてあげる | |||||||||
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空海 | ||||||||||
世阿弥 | ||||||||||
石田梅岩 | ||||||||||
中江藤樹 | ||||||||||
貝原益軒 | ||||||||||
本居宣長 | 私塾 | |||||||||
吉田松陰 | 松下村塾 | |||||||||
伊藤仁斎 | ||||||||||
荻生徂徠 1666-1728 江戸 | ||||||||||
私塾 蘐園塾(けんえんじゅく) 儒学 | ||||||||||
儒学者、思想家、文献学者。『詩経』「徂徠之松」から。徳川綱吉の侍医の息子だったが、13歳頃に父が綱吉の怒りにふれ江戸から放逐、母の故郷千葉県に住む。13年独学、父の赦免で江戸にもどる。貧しく近所の豆腐屋に助けられた(落語の徂徠豆腐)。幕府用人に応えての政治上の諮問など。私塾(蘐園塾)を日本橋茅場町に開く。やがて徂徠派を形成する。朱子学を喝破。 | ||||||||||
緒方洪庵 | 適塾 | |||||||||
広瀬淡窓 1782-1856 大分 広瀬すずだけどことごとくよろしくない | ||||||||||
咸宜園 三奪の法 | ||||||||||
豊後国(大分)生まれ。10歳の時、久留米の浪人に詩や文学を学ぶが13歳の時に仕官され師を失う。病気がちで家業を継がず意思を目指すが学者・教育者の道を選ぶ。寺の一角で塾を開き、後の桂林荘、咸宜園(かんぎえん、全寮制の私塾。ことごとくよろし、意志や個性を尊重する。『詩経』から。10代続き1897年まで存続、入門者は延べ4000人)。咸宜園は入学金を納入し名簿に必要事項を記入すれば身分を問わずだれでもいつでも入塾できた。三奪の法として身分・出身・年齢などにとらわれずすべての塾生が平等に学ぶことができるようにされた。 | ||||||||||
関信三 1843-1880 愛知→東京→イギリス→東京 関園子はスパイだった | ||||||||||
東京女子師範学校附属幼稚園初代園長 | ||||||||||
三河国(愛知県)生まれ。浄土真宗の末子として生まれる。明治5年明治政府の命を受けキリスト教内部に長期にわたり潜入。スパイ時代の書き残したものはない。東本願寺の命で随行員としてイギリス留学。政府のキリスト教解禁のため帰国、東京女子師範学校の英語教師となる。見聞したフレーベル教育を活かし、日本初の幼稚園を創立、初代園長。主任保母は松野クララ。幼稚園創立に関する手引書の翻訳で幼稚園教育の導入に大きな寄与を果たした。在職期間は3年だったが、実質的で実践的な手引書を作って大きな寄与を果たした。享年36。フレーベルの墓(球体原則にちなんでいる)を模して四角い墓石の上に円柱を置いた形になっている(谷中の信州大谷派宗善寺)。 | ||||||||||
松野クララ | フレーベル 東京女子師範学校附属幼稚園 | |||||||||
豊田芙雄 | 東京女子師範学校教員 フレーベル訳 | |||||||||
東基吉 1872-1958 和歌山 東方(東の幼稚園教育法) | ||||||||||
日本の恩物中心主義保育を批判 『幼稚園教育法(幼稚園保育法?)』(日本で最初の体系的保育論) | ||||||||||
和歌山生まれ、東家の養子となる。和歌山県師範学校卒、小学校訓導、東京高等師範学校卒、岩手県師範学校教諭、東京女子師範学校助教授に転じ幼稚園教育研究に従事、教授に昇進。5年後より宮崎県、栃木県、三重県、大阪府、宮城県の師範学校校長を歴任。日本の恩物中心主義保育を理論的に批判し、東によって遊ぶための材料として息を吹き返した。東は中村五六をちゅうしんに設立された附属幼稚園分室(保育所的性格をもった貧民幼稚園のモデル)で実践を積んでいた。 | ||||||||||
和田実 1876-1954 | ||||||||||
女子高等師範学校 『幼児教育法』 目白幼稚園(理想である誘導保育を実践するため) | ||||||||||
河野清丸 1873-1942 愛媛→東京 清丸清くまじめにマンテッソーリを | ||||||||||
モンテッソーリ | ||||||||||
愛媛県生まれ、愛媛県師範学校卒、高等小学校校長、商業学校助教諭、高等女学校教諭ののち東大哲学科(33歳入学)、教育学を学ぶ。日本女子大教授。1914年『門氏教育法と其応用}(『モンテッソーリ教育法と其応用』)でモンテッソーリ教育を日本へ紹介。 | ||||||||||
倉橋惣三 1882-1955 静岡→岡山→東京 くらはしりかちゃん幼稚園 | ||||||||||
誘導保育 東京女子高等師範学校附属幼稚園 児童中心 『幼稚園保育法真諦』 恩物中心の保育批判 『コドモノクニ』 『キンダーブック』(初の月間保育絵本) | ||||||||||
静岡生まれ、岡山の小学校に入学。小4で父の意向で東京の学校で勉強させたいと母と惣三のみで浅草小学校へ転校。父親は静岡の裁判所務め、人に劣ることが嫌いという派手な家庭生活だった。東大に入学し、暇があれば東京女子高等師範学校附属幼稚園の子どもたちと遊ぶことが好きだった。哲学科卒、院で児童心理学修了。東京女子高等師範学校講師に。教授、幼稚園主事となり、形式化したフレーベル主義を改革。恩物中心のフレーベル主義を批判し、児童中心の自然の中で行う保育を生涯にわたって強調した。 | ||||||||||
「自分の生活に或系統をつけた時に、生活興味が起つくると云ふ大きな問題であります。其の意味からしまして、幼児をして断片の生活を或中心へ結び付けて行くことができるならば、幼児の興味を深らしめ、又幼児の生活を、いっそう生活として発展させて行く事が出来ます。すなはち此所に誘導の問題が起つてくるのであります。指導だけならば「ああそれかい。それを斯うしようとするのかい。ブランコを漕ぎ度いのかい。絵が書き度いのかい。」と言つてその時その子を指導して居ればいいのですが、誘導はそれ以上のことです。」『幼稚園保育法真諦』「フレーベルの精神を忘れて、その方法の末のみを伝統化した幼稚園を疑う」と述べ、当時普及していた恩物中心の保育を批判し子供の生き生き示唆や心持を大切にする保育を提唱した。 | ||||||||||
城戸幡太郎 1893-1985 愛媛→東京→逮捕→北海道 くらきまい | ||||||||||
保育問題研究会 『幼児教育論』 オーウェン的 戦後幼児教育保育と言えば倉橋と城戸 | ||||||||||
愛媛生まれ、巣鴨学舎、早稲田を経て東大文学部。法政大教授。滝乃川学園教育部長なども兼務。大政翼賛会副部長、辞職、治安維持法違反容疑で拘束(教科研事件)、不起訴、釈放。北海道大学教授。城戸は「フレーベルを思い出す者はいてもオーウェンを思い出すものは少ない」というが、当人についても「倉橋を思い出す者はいても城戸を思い出すものは少ない」。児童中心主義への批判から社会中心主義を唱える。城戸は幼保二元令に疑問を投げかけていた(T15幼稚園令によって小学校令の一部であった幼稚園が法的にも独立した)が、当時から幼稚園が託児を兼ねるのが良いと言われていたが今現在も二元行政は変わらず、認定こども園によって三元化していく。フレーベルが幼稚園の創設者と紹介されるのが一般的であるのに対し、オーウェンは保育所の創設者と同時に社会改良車と紹介される。その一環の幼児学校だった。(一部、コクマサ幼稚園園長)幼稚園や託児所は「何よりも先ず子どもの自然である利己的生活を共同的生活へ指導していく任務を負わねばならぬ」と述べ、保育案は「社会協力」を指導原理として作成されるべきものであると主張した。 | ||||||||||
野口幽香 | ||||||||||
1900二葉幼稚園を森島峰と解説 貧困家庭の子を対象としその後の保育事業の先駆けに。 | ||||||||||
徳永恕(ゆき) 1887-1973 幽香に恕 | ||||||||||
二葉幼稚園2代目園長 | ||||||||||
牛込生まれ(父祖は小笠原家家老)。キリスト教。13歳の時に二葉幼稚園ができたが、18歳の時に鮫川橋の敷地の棒杭に目が留まり、翌年に開園(転園)しており保母になる決心をし、夏休み40日間を手伝いとして過ごす。二葉幼稚園の保母、二代目園長、理事長として幼児教育・社会福祉に貢献し、女性初の名誉都民となった。野口幽香により「二葉の大黒柱」として幼児教育に携わる傍ら、小学部、少年少女クラブ、日曜学校、夜間診療部、五銭食堂、母子寮等を通じて底辺社会の人々のために尽力した。高等女学校4年の時に友人の看病で落第し、新たに加わったクラスに山川菊栄がいた。恕が貸した本を夢中になって読んだと述懐される。恕は頼もしくあだ名はお父さんだった。恕は青踏を全号揃え、四谷の家の前を毎日のように通って二葉幼稚園へ通った。世間のあざけりの的であったころ名も告げず出産祝いを届けている。 | ||||||||||
森島峰 | 森島峰 | |||||||||
橋詰良一 1871-1934 大阪池田 家なき橋の下橋詰セミ郎 | ||||||||||
家なき幼稚園 露天保育 | ||||||||||
大阪毎日新聞社の部長、宝塚少女歌劇団の脚本を書くなど文化人であった。あるとき外遊先のヨーロッパで病衣になり、そこで見分した子供たちの姿から思い立つところがあり屋外保育の理念に基づく「ハウスレス・キンダー・ガーデン」を手本に対象10年家亡き幼稚園の計画を構想。当時住んでいた池田市にあった池田室町は我が国最初の分譲型住宅地販売であった。住宅地の中心に神社があり、その境内に家なき幼稚園を大正11年に開設した(昭和4年に「池田自然幼稚園」と改称)。この名前は橋詰のユニークさを物語り、家族制度と家屋という二つの「家」から子供を自由にするという考えに基づく。倉橋惣三、志垣寛などが保育士に取り上げたこともあり一時は6園が創設された。12年間続いたが、橋詰の死後後継者が得られず経済的困難のため数園は海産。現在でも「池田自然幼稚園」「自然幼稚園(宝塚)」などが残る。 | ||||||||||
赤沢鐘美(あつとみ) 仲子夫妻 1864-1937 | ||||||||||
日本最初の託児所 新潟静修学校 守戸扶独幼稚児保護会(日本最初の保育所) | ||||||||||
小学校で教えるかたわら、新潟静修学校(私塾)を設立し、そこで学ぶ子が弟妹たちを連れてくるので妻仲子が面倒を見た(日本初の託児所)。その後、働く過程の子どもを直接預かる託児施設となり1908守戸扶独幼稚児保護会となった。 | ||||||||||
坂元彦太郎 1904-1995 宮城→東京→各地 坂本の妹「保育」士 | ||||||||||
学校教育法草案 『幼児教育の構造』 「保育」(保護育成/保護教育) 『倉橋惣三・・その人と思想』 | ||||||||||
宮城生れ。東大社会学科卒(36歳)、姫路師範学校教諭、岡山師範学校部長、大阪師範学校部長、文部省初等教育課長、岡山師範学校校長、岡山大学教育学部長・教授。お茶の水女子大教授、附属幼稚園長、青学教授、洗足学園教授、十文字学園短大学長、特別支援学校校長。1947年学校教育法の草案つくりや幼稚園教育要領作成に携わった。保育とは外からの保護と内からの発達を助けることが一体となったものであると考えた。学校教育法第77条「保育」の極について保護育成/保護教育の省略とるつことにして条文の中に用いることにした。 | ||||||||||
~文化~ | ||||||||||
土川五郎 1871-1947 岐阜→東京 土川おかたい遊戯 | ||||||||||
明治遊戯批判 律動遊戯 表情遊戯 | ||||||||||
岐阜生まれ、藩士の五男。4歳で東京。小学校訓導、校長。本格的に遊戯の研究に取り組む。幼稚園長となり当時の小学校教育会の指導的地位となる。品川に瑞穂幼稚園と東京昭和保母養成所を設立し自らの教育理念を具現化する場所を得る。強制疎開により閉鎖、1947年75歳で亡くなる。遊戯は当時行進遊戯と唱歌遊戯があったが、律動遊戯や表情遊戯を唱えた。リズムと動作は合致しなければならないとして、運動会で演じる行進遊戯を律動的に作り変えた。当時、唱歌批判の童謡が生まれていたように、土川の遊戯は明治期遊戯のアンチテーゼだった。音楽の表現内容と動きの一致の在り方はリトミック(ジャック=ダルクローズ)と類似しており、著作でも引用しているが影響は不明。 | ||||||||||
小林宗作 1893-1963 群馬→東京→ヨーロッパ 創作リトミック | ||||||||||
リトミック トモエ学園 | ||||||||||
群馬生まれ、農家の三男、東京で小学校訓導。東京芸大音楽学校入学。大正自由教育運動の中で、小学校教員を務める傍ら、ヨーロッパ留学で幼児教育・音楽リズムと造形リズムの関係・音楽と体操の結合について研究し日本に紹介した。リトミックを教育基盤に置いた学校として自由が丘に幼少一貫校のトモエ学園(黒柳徹子卒)を設立(自由が丘小学校が苦境の際に石井獏のすすめで引き継ぐ)。東京大空襲で後者を消失し幼稚園を経営。 | ||||||||||
山本鼎 | 自由画運動 大正 | |||||||||
鈴木三重吉 1882-1936 広島 | ||||||||||
『赤い鳥』 児童自由画 | ||||||||||
広島生まれ、エディオン広島本店が生誕の地、ゲンバクドームそばに文学碑あり。三男。9歳の時に母亡くなる。15歳の時の詩「亡母を慕ふ」が少年倶楽部に掲載。童話も入選。東大英文学科、夏目漱石の講義を受ける。23歳の時に神経衰弱のため休学、広島で過ごす。広島の私立中学講師。成田中学校の教頭、英語担当。新聞小説連載。海城中学校講師。活発な創作活動。中央大学講師。多くの小説を書いたが行き詰まりを自覚し小説の筆を折る。29歳の時ふぢと結婚していたが31歳らくとの間に長女すずが生まれる。娘のために書いた童話をきっかけに児童文学を手掛ける。この年ふぢ亡くなる。『世界童話集』刊行。『赤い鳥』創刊、著名作家に執筆を依頼(芥川龍之介「蜘蛛の糸」、有島武郎「一房の葡萄」北原白秋)。大正期児童文学関係の名作が誕生し、教訓色に塗りつぶされていた従来の児童読み物が芸術的にも高められていった。39歳の時にはまと再婚。晩年は喘息、肺がんで死去とともに『赤い鳥』廃刊。 | ||||||||||
西城八十 1892-1970 牛込 | ||||||||||
童謡詩人 | ||||||||||
牛込生まれ、三男だが長兄が放蕩者のため家督相続人となった。苦しいことがないように九を抜いた八十と命名。実家は大地主、父は石鹸製造で財を成したが死後家庭は没落した。早稲田英文科卒。自費出版の詩集『砂金』で象徴詩人として地位を確立。フランスへ留学。早稲田教授。「青い山脈」「蘇州夜曲」作詞。『赤い鳥』などに多くの童話を発表し、北原白秋と並んで対象を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人金子みすゞを見出した。成城で死去。 | ||||||||||
北原白秋 1885-1942 | ||||||||||
詩人 「雨降り」 「ゆりかごのうた」 | ||||||||||
白秋が活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並んで評される近代の日本を代表する詩人。熊本の商家の生まれ、まもなく福岡へ。長男。2歳の時に大きな影響を受けた伯母シカがチフスで逝去。福岡県立伝習館中学(現高校)を成績下落のため落第、詩歌に熱中する。大火により酒蔵が全焼、家は傾き始める。早稲田予科。少年時代に本を教えてくれた叔父が亡くなる。詩人として活躍。隣家の人妻と恋に落ちスキャンダルによって名声は地に堕ちる。いろいろあり各地転々とする。小田原時代に鈴木三重吉の勧めで『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当。「雨降り(あめあめふれふれ)」「ゆりかごのうた」「からたちの花」「武蔵野美術大学校歌」 | ||||||||||
小川未明 | ||||||||||
★羽仁もと子 | ジャーナリスト 自由学園 | |||||||||
小原國芳 | 玉川学園 | |||||||||
~主に社会的養護~ | ||||||||||
柏倉松蔵 | クリュッペルハイム柏学園 | 柏倉松蔵 | 1916から肢体不自由児の巡回療育相談事業 1921柏学園設立 | |||||||
高木憲次 | 整形外科医 光明学校 東京整肢療護園 肢体不自由児の父 | 高木憲次 1889-1963 東京 | 東京本郷生れ。祖父は徳川幕府に仕え、父は天皇の侍医を務めるような医業の家へ婿養子となる。憲二は色白虚弱だが繁盛する開業医の坊ちゃんとして恵まれた幼少時代を送った。優秀で尋常小学校を飛び級。鎌倉遠足で手足不自由の孤児院の子と出会い心を動かされた。父が孤児院とは立派なところだから蔑視してはいけないと車夫を叱ったのを感心して見ていた。独協中学校入学(父は医学博士にしたいので、ドイツ語を学ばせたかった)。カメラを愛好し、後にレントゲン研究に大きく影響。東大医学部入学。整形外科医、ドイツ留学、東大教授、日本医科大教授。関節鏡開発。先天性股関節脱臼、口蓋裂研究。下町で肢体不自由児の診療、調査を続けた。不具、片端と呼ばれた障害を肢体不自由と呼ぶことを提案。S7光明学校(日本初の肢体不自由学校)設立、S17板橋に整肢療護園(療育施設)。 | |||||||
石井十次 | 岡山孤児院 児童福祉の父 愛染橋保育所 石井十次賞 | 石井十次 1865-1914 宮﨑→岡山 | 宮﨑の下級武士の長男として生まれ、海軍士官を志し東京の攻玉社に入学するも脚気により退学。製糸業の事業化を志すも反政府として投獄。同房者から西郷隆盛が土地開墾をしていることを聞く。幼馴染の品子と結婚。西郷に倣い開墾するも水不足により断念。小学校教師ののち宮﨑警察署の巡査となる。遊郭女性から性病をもらう。医師から聖書を渡され医学を勧められ学ぶため岡山に移住、キリスト教に入信。医学校の進級試験に失敗。診療所で代理診療を行う。生活に困窮する母親から男児を引き取ったことをきっかけに孤児教育会(後の岡山孤児院)を三友寺で創設。株式会社ライオンから寄付金あり。濃尾地震による孤児93人のため名古屋市に孤児院を開設(翌年閉鎖し孤児は岡山へ)。宮﨑へ移住するため院児25人が開墾開始。品子死去し辰子と再婚。日露戦争による孤児63名、東北地方の凶作による孤児824名を受け入れ1200人を超える。大阪に愛染橋保育所(大阪 貧困 3歳未満児を保育所 3歳以上児を幼稚園に収容)、愛染橋夜学校、東京に日本橋同情館(職業紹介、代書、代筆)を設立。長女友子の出産を電報で知った同日、腎臓病で死去(48歳)。 | |||||||
石井亮一 | 滝乃川学園 知的障害 | 石井亮一 1867-1937 佐賀→東京 | 幼少期、藩士の六男として生まれる。秀才だったが体が弱かった。加賀うk者を目指し灯台工学部へ入学したが身体検査で不合格。コロンビア大学留学のために英語習得しようと立教大学へ入学した。創立者チャニング・ウィリアムズの教えに感銘を受けキリスト教徒となる。留学は身体検査で不合格となり諦めた・付属校の陸橋女学校の教諭に就任。明治24年教頭在職中、濃尾大地震が発生し多数の孤児が発生し、少女たちが人身売買の被害を受けていることに大きな衝撃を受ける。現地で岡山孤児院の石井十次と合流し、孤児の救済にあたった。20名余の孤児を引き取って1891年「孤女学院」を開設。その中に知的な発達の遅れが認められる女児が名いた。当時は白痴とよばれ人権侵害がはなはだしい状態で、2度渡米し学び、ヘレン・ケラーとも会見。「孤女学院」を「「滝乃川学園」(東京都国立市と改称し知的障害者教育の専門機関とする。常に財政問題を抱え、運営は厳しかった。36歳の時、女子学習院の教諭、津田塾大学の校長も務め園児の保護者でもあった筆子未亡人と結婚する。東京女学校を卒業した才色兼備の女性であった。運営もア安定せず、園児の失火により数名が死亡し学園の閉鎖を決意するが貞明皇后などの支援があり事業を継続する。財界からは渋沢栄一が支援に乗り出した。渋沢は後に第3代理事長となる。 | |||||||
留岡幸助 | 東京家庭学校 北海道家庭学校 感化事業の父(1899家庭学校 1900感化法公布 1908各道府県に感化院設置義務) | 留岡幸助 1864-1934 岡山→家出→教会→北海道→アメリカ→東京 | 岡山高梁で生まれ、米屋の留岡家の養子になる。子供同士の喧嘩で武士の子にけがをさせ商いに支障が出て養父から折檻を受け家出。キリスト教会に逃げ込む。徴兵検査に不合格となり、同志社神学科に入学。牧師になる。北海道の教誨師となる。アメリカに留学し感化監獄で実習。帰国後日本で感化院(家庭学校)の設立に奔走し、1899巣鴨に家庭学校設立。妻夏子と死別しきく子と結婚。北海道にも家庭学校の分校と農場を開設。 | |||||||
渋沢栄一(慈善・社会事業家としての) | 東京養育院(ホームレス) 中央慈善協会(全国社会福祉協議会) 救護法(生活保護法) 日本近代経済の父 | 渋沢栄一 | 直接関わったのは、東京養育院の院長(ホームレスが入所。現在渋沢の銅像が立つ)。入所者は高齢者、病者など多様な人がいたため、いろいろな施設が派生。1908中央慈善協会(全国社会福祉協議会)の初代会長。1920滝乃川学園の失火のため再建に尽力し、三代目理事長。救護法(生活保護法)がやっと制定した後に政権交代により緊縮財政のため実施されなかったところ、政府に陳情し1932実施(既に死去)。 | |||||||
糸賀一雄 | 近江学園 びわこ学園 | 糸賀一雄 | 1946に知的障害児施設近江学園を、1963に重症心身障害児施設びわこ学園を設立 | |||||||
堀文次 | ホスピタリズム 石神井学園 | |||||||||
積惟勝 | 集団主義養護論 生活綴方教育運動 熊本→東京 | |||||||||
脇田良吉 | 白川学園 | 脇田良吉 | 知的障害者施設 白川学園M42 京都に寄宿舎を附設した | |||||||
無着成恭 | やまびこ学校 | |||||||||
伊沢修二 | 楽石社(らくせきしゃ) | 伊沢修二 1851-1917 | 日本の吃音研究の最初の人(楽石社=伊澤邸内に創設)。弟が吃音で悩んでいた。幕末、貧乏武士の生まれ。ジョン万次郎に英語を習う。渡米?視話法。筑波の校長。日本語教育、唱歌、政治家。 | |||||||
松方正義 | 日田養育館 | |||||||||
高瀬真卿 | 東京感化院 | |||||||||
池上雪枝 | 神道祈祷所 池上感化院 | |||||||||
~〇〇学校といえば~ | ||||||||||
東京女子師範学校附属幼稚園(現お茶の水女子大学附属幼稚園) 1876 | ||||||||||
愛珠幼稚園 1880 大阪の有識者の要望 町立 | ||||||||||
子守学校 1870-1880年代 公立、私立 幼い弟妹の子守のために学校に通うことができない子供のために作られた →幼子を見てくれるわけではなく…新潟静修学校が初の保育所併設となる流れ | ||||||||||
しょう栄幼稚園 1889 米人宣教師ハウ 神戸 保母養成 | ||||||||||
守戸扶独幼稚児保護会 1890赤沢鐘美 新潟静修学校(私塾)に併設保育室 貧困層 日本初本格的な託児所 弟妹を連れて登校する子どものため | ||||||||||
二葉幼稚園 1900 野口幽香、森島峰 | ||||||||||
★愛染橋保育所 1909 石井十次 大阪 貧困 3歳未満児を保育所 3歳以上児を幼稚園に収容 | ||||||||||
自由学園 羽仁もと子 | ||||||||||
玉川学園 小原國芳 | ||||||||||
柏学園 1921柏原松蔵 | ||||||||||
岡山孤児院 1887 石井十次 | ||||||||||
滝乃川学園 1891 石井亮一 | ||||||||||
整肢療護園 1942 高木憲次 | ||||||||||
近江学園 1946 糸賀一雄 | ||||||||||
びわこ学園 1963 糸賀一雄 | ||||||||||
寺子屋(手習所) 武士、僧侶、神官などが開いた詩的な教育機関。読み、書き、そろばん | ||||||||||
私塾 | ||||||||||
近世に発達した民間人が設立する中等・高等教育機関。江戸時代の教育機関の一つとして私塾があるが、その代表的なmのとして伊勢の鈴屋(本居宣長)や大阪の適塾(滴々斎塾、緒方洪庵)がある。 | ||||||||||