地理
四国の北東部で瀬戸大橋を経て中国地方と接し、内海に点在する110余島が県域である。
讃岐富士の名を持つ飯野山、奇峰五剣山、大小無数のため池、花崗岩の白砂青松。大きさの割に高い山を持つ島々は段々畑と松の緑に覆われる。
気候は温暖で年間通し晴れが多い。かつては讃岐三白(塩、綿、砂糖)と呼ばれ、製塩業はこの気候が育てた。
観光地としては琴平町の金刀比羅宮、金毘羅大芝居、源平合戦の屋島、寒霞渓のある小豆島、砂に寛永通宝の描かれた琴弾公園、ほか玉藻公園、栗林公園、石垣の高さ日本一の丸亀城など。真言宗開祖空海は讃岐生まれで空海三大霊場の善通寺。
製塩業は消滅し、塩田跡には臨海工業団地、白砂青松はコンビナートに姿を変えた。
南部は讃岐山脈が連なり阿波と讃岐の国境を区切り阿讃山地とも呼ばれる。北部は讃岐平野が広がる。讃岐山脈の地質は白亜紀末期に形成された和泉層群と呼ばれる砂岩、礫岩、頁岩などの互層で南側に傾斜している。頁岩が侵食されている。
歴史
1万年以上前には人類が住み始めた。讃岐の表し方は古く讃吉、紗抜など種々あるが語義は不明である。三豊郡仁尾町の小蔦島貝塚が縄文早期の遺跡。神子浜遺跡からは鉄器も発見される。
北九州の銅剣文化圏と近畿の銅鐸文化圏の接点にある。
古代
大化の改新以前は、東讃岐は讃岐氏、西讃岐は忌部氏が勢力をふるった。これらの統率者は円墳で前方後円墳は少ない。
大化の改新後、讃岐は南街道に属した。庸調として塩・土器・絹織物・薬草・ごま油・海産物があった。
空海は774年屏風ヶ浦に生まれた。遣唐使に従って中国に渡り真言の秘奥を学び帰国した。1156藤原氏との保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐に流される。四国は流謫の地であった。崇徳上皇の亡骸は白峯御陵にある。
中世
源平合戦にて佐藤継信の戦死や那須与一の扇の的の話は屋島での話である。屋島に逃げた平家方だったが、屋島の土豪たちも次第に源氏方へ加わり、屋島を棄て九州に逃れ壇ノ浦の戦いで滅亡する。
近世
豊臣秀吉にて四国平定される。生駒氏の時に高松城が築かれ本拠とし、西讃の備として丸亀城も築城した。関ヶ原の戦いでは生駒氏は両面作戦にて親・孫は大坂方へ、子は徳川方へ従い、没落を免れた。
藩政時代、高松の足軽の子として生まれた平賀源内はエレキテルや花浣布などの発明で知られる。歌舞伎流行の影響で農村歌舞伎が小豆島などに残る。
近代
廃藩置県にて讃岐国は丸亀、高松、倉敷の三県となったが、のちに合併して香川県となる。のちに徳島県と合併し名東県となるが、対立が多く、結局分離する。再び愛媛県と合併するがまた分離独立する。
★屋島 源平合戦 那須与一 寒霞渓ロープウェイ 江戸時代に埋め立てられ現在は陸続き。
★女木島 鬼ヶ島のモデルとされる 山頂に人工の大洞窟があるが、どういう目的で掘られたのかはっきり残っていない。
★さぬきこどもの国 児童館
★金刀比羅神社 海の守り神 海の科学館(琴平海洋博物館)
小蔦島貝塚